霊は大別すると、霊界の霊と人間界の霊とに分けられる。
人間界の霊とは、人間の死後肉体から離れた顕在意識のことである。
時に残留思念とも呼ばれる。
霊界の霊とは、前世の因縁、怨霊の事を云う。
所謂、前世で殺された人の怨念の事である。
そして、人間には二つの意識が備わっている。
それが、顕在意識と潜在意識である。(自分でコントロールできる「顕在意識」と、コントロールできない「潜在意識」)
顕在意識とは、自覚している意識。
潜在意識は前世の顕在意識が潜在化したもの。(無意識の意識)
しかし、潜在意識と魂を混同してはならない。
顕在意識とは透明なブヨブヨした皮膜のようなもの。
この皮膜が肉体の周りを覆って重複して存在する。
故に、身体が死滅すると肉体から離れ人間界を浮遊することになる。
また、人間が生存している間は幽体離脱を繰り返し肉体から一時的に離れることもある。
だが、肉体が死滅したあと、人間界を彷徨ううちに悪質な霊に変貌することもあるのだ。
が残留思念とも呼ばれているように、悪霊に変貌したところでそれ程大した能力はない。
俗に言う、世間の悪霊とは、この肉体を亡くした顕在意識のことを指すようである。
そして、魂とは、心の中(霊界)に存在する数百年前の自分自身。
魂は不滅だ、とも云われるように魂は人間の根源である。
と共に、魂は人間界に身体を誕生させる元でもあるのだ。
また、運命をも決める存在でもある。
しかし、魂は人間の生死には全く関わってはいない。
また、この世を彷徨う霊が顕在意識だ、などと知っているものは誰一人いない。
だから、霊界の霊と人間界の霊が一括りに認識されてしまっているのだ。
俗に云う、幽霊とは肉体を亡くした顕在意識であり、かつまた前世の因縁、怨霊の想像上の仮の姿でもある。
怨霊の仮の姿、とは?
霊界の霊が人間界に出る、などと云う事は絶対あり得る事ではないからだ。
しかし、人間界にでることを想像すれば、人間界に姿を現すことも可能となる。
が前世の因縁、怨霊はたとえ人間界に出たとしても目的を持って現れるため、誰の前にでも、と云う事はない。 (霊界の霊とは、前世の因縁を指す)
それに、霊界の霊は顕在意識と違って人間に憑依するのではなく、魂に憑依する。
故に、憑依されたからと云って気づくことなどは一切ない。
ましてや、魂を感じることが出来る人間などは存在しない。
故に、巷の除霊と言えば悪霊となった顕在意識のこと。
だから、その程度の霊を除霊したからと云って何も変わることはない。
故に、除霊とは前世の因縁、怨霊を除けて初めて除霊をしたと云う事になるのだ。
しかし、霊界の霊は大変手強い。
また、霊界の霊を相手にできるのは私以外にはいない。
だから、霊障を解決するためには、この霊界の霊を除けないことには何も解決しないのだ。
何しろ、病の殆ど、と云っても過言でない程病は霊障だからである。
だから、人生をどん底に落とす一番やっかいな霊は、前世の因縁、怨霊と云えるのだ。
と云うことで、霊界の真実、人間界の霊と霊界の霊の違いが多少はお分かり頂けたとのではないだろうか。
これは余談だが、人間界と霊界の境界が三途の川と云うのはご存知だろうか。
死後の世界を疑似体験した方々の顕在意識は、人間界の意識であるが故に三途の川を超えて霊界に入ることはできない、という事を。
故に、川の向こうからいくら手招きされても逝くことはできないのだ。
更に、意識が覚醒した方の云う三途の川は、実際の霊界の三途の川とは多少異なっている。
お花畑のような綺麗なところだけではなく、花など全くない石ころだらけの川などもあるのだ。
それに、なぜ三途の川を視たのが顕在意識だと云えるのか?
と云えば、意識が覚醒したとき三途の川が鮮明に記憶として残っているからなのだ。(魂や潜在意識では、意識として残る事はない)
また、本来は魂が人間を正しい方向に導く役目を担っているのだが、多くの魂は前世の因縁、怨霊に捕えられているがため、その役目を果たせずにいる。
それに、女性にとり憑いている怨霊は前世で何の遺恨もないものたちが殆どなのだ。
故に霊界も人間界同様混沌とした世界のようでもある。
最後までお読みいただきありがとうございました。